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年を取るにつれて墓参りをしたくなります

昨年、約10年ぶりの父の墓参りをしました。
父が亡くなって25年。
父に対する思いというよりももっと大きな意味のあった墓参りでした。
 父は私が21歳の頃に無くなりました。
父との思い出といえば子供の頃一緒にキャッチボールをしたこと、私が野球をやっているところを見に来てくれたこと等です。
怒られた記憶は殆どありませんでした。
だから印象が薄いのかもしれません。
私が高校生までは父と一緒に住んでいましたが、それ以降は密に会ったりはしていませんでした。
ただ、父の最期は強烈な痛み止めを打たなければいけないほどで、意識がもうろうとしていて、私が話しかけても私が誰だかわからないほどでした。
父が私を認識できないことが比較的強烈な印象として残っています。
 父の死後は、母から、生前の父が私を誇りに思っていたことをよく聞かせてもらっています。
一緒に住んでた頃よりも死後に母から教えられた父の気持ちの方が印象に残っています。
 父との関係はこのような感じでした。
強烈な父への愛情から墓参りをしたということではありませんでした。
去年の帰省は約3年ぶり、その前が9年ぶりという時間の間隔は、実家から離れて生活拠点を構えてしまったためしょうがありません。
その帰省も、私が若い頃は旧友に会うことが主たる目的でした。
また、甥っ子や義理の兄と会って交流を深めることが楽しみでした。
また前々回の帰省は自分が資格取得に成功したため、その報告を母親にするためのものだったりします。
しかし、去年の帰省は、初めて墓参りを主たる目的としたものだったのです。
 私も年を取りました。
父が死んだときの年齢よりも10歳若いだけです。
そうなりますと自分の「死」を意識せずにはいられません。
休みの日に図書館に行きますと様々な死に関する書籍があることが分かります。
尊厳死、満足死、選択死など、普段あまり聞いたことのない言葉が目立ちましたが、それらの殆どを読みあさることで、それらの意味がある程度わかるようになりました。
 人間は必ずいつか死にます。
それでは自分の理想の死に方を考え、それを目標に現在どのように生きていくかを考えるべきだと悟りました。
しかし、このようなことを私と同年代の友人に喋っても相手にしてくれませんでした。
彼らは死について考えたくないようです。
自分だけは死なないという幻想にとりつかれているようです。
もっと現実に目を向けるべきだと思います。
 また、私は今たまたまこの世の中、時代に生きているだけであって、長い歴史を考えますとそれはとても些細な出来事に過ぎません。
私がこの世に生を受けるまでには過去に父と母を含め大勢の祖先のおかげであることを理解することが出来ました。
この点が若い頃とは圧倒的に違う点です。
若い頃は歴史の中に自分が存在する意識を持てませんでした。
 このようなことを気づかせてくれたのはやはり身近な死である父の死を真近で見た経験によるものと考えています。
そして、母が語る父の話も歴史を感じさせます。
 私が去年墓参りをした最も大きな理由は、父を始めとする私の祖先の方々に挨拶をしに行きたいと考えたためです。
私もいつかはそこに行くのだから、前もって挨拶をするのが礼儀です。
また、こちらの賢いお墓ナビも参考に合わせてご覧ください。

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